1995/1/17

大学を無事卒業し、現在の会社に入社した1年目の冬。
連休明けの火曜日だった。
大阪勤務の僕は当時実家にいた。
5時35分、当時寝起きの悪い僕はそんな時間に起きることはめったにないのに不思議と目が覚めた。
トイレに行きたくなって用をたしてベッドに戻る。
外はまだ暗い。あと1時間は寝れるなぁと思いながら。
さぁ寝ようかと思ったその時だった。


体が一瞬浮いたような感覚だった。
体験なんてとてもしたことのない大きな揺れ。
自然と口から言葉が出た。
「伏せろ〜」
箪笥が僕のほうに向かって倒れてくる。
運良くベッドの高さのおかげで斜めの状態で止まった。
親父は通風で入院中。自宅にはおふくろと妹と僕の3人。
まずおふくろが大丈夫か確認する。
「大丈夫だけど…」
2つ隣の部屋にいた妹も確認。
「お兄ちゃん、大丈夫」
まだ夜は明けない。
暗い中おふくろがその場を動こうとする。
「少し明るくなるまで動いたらあかん!」
僕はマンションの8階から外を見る。
5分後ぐらいだったが、火の手が数箇所からあがっている。
このとき初めてこれはただ事ではないと思った。
程なく明るくなり、散乱した床を注意しながら家を出る。
当然マンションのエレベーターは動いていない。
8階から歩いて1階へ。
200m離れた祖母のいる市営住宅に向かう。
築30余年の市営住宅の行く末を恐れながら走った。
運良く建物は無事。
祖母も怪我一つなかったので、じっとしてるように言い残してマンションへ。


帰ってくる最中、道路を見ると4〜50cmの段差ができている。
一体どうすればこんな段差ができるのかと唖然とする。
マンションの下へ戻ると黒山の人だかり。
ほとんどの世帯が下へ降りてきた。
みんなが恐怖に慄いている。
余震もしばらく続いていた。
住んでいたマンションは2棟あり1・4・7・10階がエレベーターの停止階でそこだけジョイントでつながっているのだが、片方が傾いたようでジョイントがずれてしまっていた。


ここから、単車で15分ほどの当時の彼女の家へ。
彼女は運がいいのか悪いのか北海道へスキー旅行中でいないのだが、彼女の両親が心配だったのでとりあえず家へ向かう。
道中、火事にこそ遭遇しなかったが至る所で住居が倒壊していた。
ほどなく彼女の家へ。
唖然とする。
基礎が崩れて隣の家へもたれかかり、もはや倒壊寸前。
家の中を見ながら呼び出したが、家にいる様子はない。
無事を祈りつつ近くの小学校へ。
体育館は人が座るのがやっとのほどいっぱいの人。
5分ほど探しただろうか。
ご両親の姿が見えた。
ホッとして声をかけたのは覚えているが、そのとき何を話したのか覚えていない……


本当はもっといろんな思い出が頭の中をよぎってくる。
しかし、はてなでは語りつくせないほど阪神淡路大震災ではいろんな経験をした。
我が家はけが人もなく、命だけあったのがせめてもの救い。
友達も2人亡くなった。
この10年が自分自身を大きく変えたし、ある種人間性までも変えてしまった部分もある。
しかし、我が家が前向きな家庭であったことが今の僕の人生が間違ってはいないことを感じさせてくれている。
僕は一人ではないのだということを。
多くの友に支えられているのだということを。
dear my friend 僕は器用なほうではないけれど、これからも宜しくお願いします。


震災10年を思いつつ、前を向いて。